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更新日:2024年10月4日
(参考文献)『御所見の昔・今』発行 御所見地区社会福祉協議会
その昔、桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)親王より出た板東平氏の一族である長田氏が平安時代、葛原の地を私領、垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に館を構えたので里人が垂木(タルキ)御所と呼んだ。その御所が菖蒲沢の塚より展望できたのでこの塚を御所見塚と呼んだ。
また、別の伝えでは葛原親王が当地に下向し葛原の地に御所を造り、付近を散歩のおりこの塚より御所を眺められたとも言われている。後に塚の名前が御所見村の名となり藤沢市合併後、御所見地区と呼ばれている。
昔、寒川町の寒川神社の所領の御用田があったので用田と呼んだと言われている。一説に昔角田氏の勢力があったころに、伊豆より伊東氏がきてその勢力に敗れて「ク」を取り用田となった説もあるが、今に残る文書から角田氏が領主のころ、用田郷の地名が見られたといわれる。
昔からの言い伝えによれば、ひとつには桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)親王がこの地におられたので高倉郡(タカクラゴオリ)「葛原村」となったと言われ、また、その一族(長田武蔵守平忠望)がこの地に住んで領主となり、祖先の葛原親王を鎮守として崇めていたので「葛原」という村名になったとも言われている。あるいは、葛がおい茂る原だったからだとの説もあるが、やはり葛原親王にちなんで付けたと思われる。
沢辺に水草菖蒲の生えていた土地を開拓したので菖蒲沢と名付けたと考えられる。勝負沢と記されたこともあり、もとはショーブ沢=清水の細流の流れる低地ということから発した地名ととることもできる。言い伝えによると菖蒲沢はもとは葛原の一部で、ある時期に分村したといわれる。
平安時代中期以前から相模の国十三社中のひとつ宇都母知神社の名前の「宇豆毛遅」がなまったものと言われている。また、古語で「ウツ」も「モチ」も「小さな盆地」という意味がありこの地域の地形から「ウツモチ」となりやがて転化して「うちもどり」となったと言われている。
また、一説には、海老名の刀鍛冶屋の五郎正宗があるとき、鎌倉におさめる刀を持っていく途中打戻の高台で休息し、改めてみつめ十分な出来でないような気がして家に持ち帰り打ち直したのでとも言われている。
昔ところどころに沼地があり、獺(かわうそ)が多く生息していたといわれ獺の郷から村名になったと言われている。水田の下には湿地帯に生える葦の葉の地層が残っていると言われている。
また、新編相模の国風土記には獺郷(おそごう)村(乎曽加宇牟良)(オソカウムラ)と記されている。
古くは寒川郷であった。当地は相模の国一宮寒川神社(相模十三社の内)の領で、その宮地であった野原を開拓し出来た集落であったので宮原という名称となった。
平成五年度から始まった横浜伊勢原線、用田バイパス工事に伴い遺物が大量に発見されています。旧石器時代の末期の土器や住居跡、動物を捕るために使ったであろう落とし穴、また、この時代ではほとんど確認することができなかった木材が炭化した状態で出土し注目を集めました。また、富士山の噴火で埋没した溝や道、地震のあった痕跡等がみつかっています。御所見の環境を考えるとはるか18000年前から人々が生活していたことが伺えます。
江戸から十四里(約56km)のところにあり、商店が連なる用田の県道横浜伊勢原線は昔の大山街道、用田辻で交差する県道丸子中山茅ヶ崎線は中原街道であった。また、大山街道は御所見中学校前で厚木街道(県道藤沢厚木線)交わっている。用田辻付近は旅籠や茶店が集まり、大山参りの人たちでにぎわったといわれている。江戸時代には旅人が一休みし、雄大な富士山の景観を楽しんだ後に、大山へ向かって歩き始めたのだそうだ。
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